先週金曜日、「柳田の制作物」に関する打ち合わせで、大学の中の映画学科ではないアート系プロジェクトチームとのミーティングに行ってきた。演出部の麻野たちを伴い、学生が考えたイメージを伝えて、今後の現実的な作業を相談するためだ。撮影するにはその「制作物(オブジェ)」が実際にないと困るわけであり、ではその「柳田の作っている制作物」はいったいどういうものであり、現実的に誰がどういうふうに撮影に間に合わせて用意するのか…。こういうひとつひとつが「北白川派」では、プロである僕たちのイメージやスピードだけではなく学生の考えや時間を取り込みながらの創作になっていく。
で、そこは、世界的なアーティストのYさんが中心になっているプロジェクトチーム(ファクトリー)であり、打ち合わせに行くのは今回が3回目、Yさんとお話しするのは2回目となる。
今回の映画の中では「柳田」の作っている「オブジェ」が非常に大きな意味を持つ。
なおかつ、映画の中においてそういった美術的な制作物、或いは音楽=演奏シーンなどの「芸術的表現」を具体的に扱うのはとても難しい。
その創作物や演奏が一定の、或いは設定に違わぬ表現レベルに達していない場合、映画全体の説得力が全て崩れ去っていくことになる。
僕は今回の映画を企画する段階から、実はなんとかYさんの協力を取り付けられないだろうかと考えていた。
ただ、Yさんはアーティストとして、「柳田」の「破壊」とは言わば真逆の方向で行動されている。
僕自身は以前からYさんの表現・行動には大きな興味と深いリスペクトを感じていた。しかしそんな僕自身の思いと、今回の企画に対する協力依頼がYさんに理解されることとは全く別のことであり…と言うか、送ったシナリオ(第2稿)を読んで頂いた段階で協力を断られるのではないだろうかと思っていた。
1回目の打ち合わせのときに僕はその危惧を正直にYさんに伝えた。
Yさんからは、個人的な名前は出さずプロジェクトチームとしての協力をする、というお答えだった。
そしてやはり、「柳田はいったい何をしようとしているのか。彼の意図は何であり、具体的にどう行動しようとしているのか」を問われた。
第3稿を読んでいただいた上での今回のミーティングでも再度それを問われた。
柳田は、いったい、何をしようとしたのか
僕の答はここには書かない。
学生と一緒に、さらに検証していかねばならない。
さらに今回、柳田がつくっている「最後の作品」(放射性物質)についての取材、裏付けの甘さを指摘される。
それがしっかりしていなくてはどんなものを作るのかイメージできないし、中途半端なものを制作し見せた瞬間にこの映画の世界が全て壊れてしまう…そして福岡監督は大批判を浴び火だるまになるでしょう…(笑)…と。
僕は火だるまでもいいのだがこういった問題に関してリサーチが甘いまま表現してしまうと社会的に傷つけなくても良い人々を傷つけてしまうことにもなる、と僕が学生に言うと、Yさんが脇から、表現するということは必ず誰かを傷つけることになるのです、と仰った。
それこそ僕がいつも学生たちに言っていることであるのだが…。
今回の北白川派においてこういう厳しいモチーフを設定しそこまで学生に強いていることに、また少し逡巡する。
いや違う。迷いは最早ないのだが。
僕は僕にかかる火の粉が彼らにも及ぶことだけは避けねばならない。彼らを守らねばならない。
…そのためには、やはり充分すぎるほどのリサーチをして、立体的な強い映画にすること。
Yさんも、そのプロジェクトチームのチーフであるMさんもやはり表現者としてすごくしっかりとシナリオを読み込んでくださっていて、様々に具体的かつ刺激的なアドバイスを提供してくれる。なおかつ「学生とともに作り上げていく」という北白川派の意図を理解して、そこを大事にしてくれる。丁寧に学生の考えに向き合って、時間をかけてくれる。感謝、である。
或いは正直なところでは、「学生と一緒に」という部分がなければ、Yさんはきっとこの映画に協力はしてくれなかったのだろうと僕は想像している(そのチーム=ファクトリー自体が、北白川派と同じようなポリシーで運営されている)。そのことが北白川派の学生たちに伝わっているか。もう一度あらためて僕から伝えねばならないのだろう…。
1回目の打ち合わせで「柳田」の個人史が広がってきた。そこからさらに発展深化させるのはこちらの責任においてやらねばならないこと。
今回の打ち合わせで「柳田のオブジェ」が具体的に見えてきた。
いろんな人を巻き込みながら映画は進んでいく。
前に。前に。
引き返すことはできない。