クランクアップした。
「クランクアップ」というのは「撮影終了」という意味であり、他の方々のブログにもあるように映画がこれでできあがったわけでは全くない。ひとつの行程を我々は通過した、のだ。
しかし編集に入ろうが仕上げに入ろうがそこに「撮影素材」がなくては何もできないわけである。
事故もなく無事に全てのシーンの撮影を終えることができたのは実はたいへんなことであり、関わった多くの皆さんに心から感謝したいと思う。
ありがとうございました。
映画を作るということは本当に様々な人を巻き込み、お世話になり、端的に言ってしまえば面倒や迷惑を強いる結果になる。
さらに言えば(前にも書いたが)それは「表現」として今後もどこかで人を「傷つけ」続けていくだろう。
我々は決してそれらを当たり前のことだと思ってはいけない。
常に頭を低く垂れ、自分の行為の結果と向き合い続けねばならない。
表現者は、映画を作る者は、絶対に傲慢であってはならない。
「ありがとうございました」は何回言っても言い足りないものなのだ。「すみません」は何回口に出してもまだまだ言い続けたくなるものなのだ(もちろん、簡単に「すみません」と口にしてはいけない場合もある。全てを引き受けじっと耐えて沈黙を守らねばならない場合もある)。
その先に、我々の、映画の「覚悟」がある。
心を込めて映画を作るという意志がある。
以前から繰り返しているし、また既に方々から指摘も受けているが、ことにこの映画は「人の傷に触れる厳しいモチーフ」を包み込んでいる。
物語とはあくまで架空のものであるが、やはりこの映画から二年前の震災を想い起す人は多いだろう。
2万人を超える死者負傷者行方不明者がそこにはあり「残された人々」の今後には未だ「確約された復興」は提示されておらず、原発事故は10数万の避難者を生みさらにその影響が今後どのようなことになるのか誰も明確に把握できていない。
そういった人々のそれぞれに「生活」がある。いま、ひとりひとりが一人一人の事情を抱えて生きている。
生きるということはともかく「明日」を信じるということであろう。
我々は必死に「明日」を信じようとする。
だが同時に、「二年前のこと」はもしかしたら、「二年後のこと」であるのかもしれない。
この国では虐待死が年間50件を超えている。
顕在化していないものも含めれば「虐待」は数万件にのぼると言われる。
彼らにとって、明日はどのような意味を持つのだろうか。
それでもこの国には、貧しい親と子が余裕をもって「豊かに」心を通わせながら生きていける環境はなく、原発は再稼働に向かっていく。
そういう為政をこの国の人々は選択している。
そんな人々に、この映画の「覚悟」は何をもたらすのだろうか。
この映画の中で生きる人物たちの様は、いったい人々に何を感じさせるのだろうか。
これからだ。
この映画はようやくこれから生まれていく。