命のこと 僕は映画で何ができるのかということ

いま公開中の北白川派『カミハテ商店』(山本起也監督)の配給宣伝学生チームが、劇場(京都シネマ)で、観客に「あなたは死のうとしている人をとめますか」というアンケートを配布している。
そのアンケートに対する答えを学生の一人がまとめてくれたものを読んだ。
さまざまな人が、さまざまに、命についての考えを、他者とのかかわりについての考えを、持っている。
当然のことだが。

今回の北白川派でもやはり「命」或いは「死」の問題は大きい。

これまでも考え続けてきたのだがさらに考える。考え続ける。

「死」は絶望なのか。
では希望とはなんなのか。

「映画はやっぱり最終的には明るい希望的なもので終わらないとね」…と、よく言われる。

我々は映画で果たして希望を描くことなどできるのだろうか。
僕は誰かに希望を見せてあげることなどできるのだろうか。

希望は、映画を観た人の中に生まれてくるものでしかない。

ここのところとても死が身近なものになっている。
死はもうそこにいて、いつこちらを向かれ目が合ってしまうのかと怯える。
夜中にその気配を感じて目覚めてしまうことがあり、そうするともう眠れない。
街を歩いていて世界の終わりを感じることがあり、急に立ち竦んで身体の震えがいつまでも止まらない。
僕は映画の中で死を描く或いは予感させることで何を確かめようとしているのだろうか。
いや、決して死の何かではなく、生きることの何かを確かめたいのだが。
いや…。

僕たちは「愛」を確かめたくてしょうがない。
愛を確かめないと生きていられない。
「私は果たして誰かに愛されているのか」
愛は希望なのか。愛は幻なのか。愛は絶望なのか。

僕は映画で何ができるのか。
いや、「できる」などと考えること自体がとても不遜なことであるのに違いない。

(アンケートの内容は、近々『カミハテ商店』のHPにアップされます。)