夢 その2

既に次の組(緒方明組)に入った浅利ちゃんからメールが来た。
本人に了解を得たので、以下コピーします。

<件名>
緒方組始動しました
<本文>
東急文化村前で山本さんに精算を渡し、ステューディオスリーで待ち合わせて、森重さん、緒方さんと打ち合わせ…。
今年卒業する学生2人をスタッフとして招き入れる事になり、勿論浅利車も使う事になり、なんか繋がってるな~とか思い…。
明日から、色々な事が起きるんだろうなぁ~って思っていれば、いま毎日見ている、『正しく生きる』の追撮や、子どもたちを叱ったり、一緒に笑ったりしてる夢は見なくなりますかね~(笑)。    浅利

夢はどんどんと更新され、次々に、「いつか見た」夢になっていく。
飲もうぜ、浅利ちゃん。

東京に戻ると相変わらずいろんなことがうまく進まずよく眠れない。
深夜というか明け方うとうとしていると現場の夢をみた。
シナリオの段階でオミットしたシーンを撮影している。
自分が試してみようと思ったことを演出部に指示している。
もちろんそのシーンは現実には存在しない。

そういった試行錯誤、検証、選択、視点の転換…が多いほど、映画は立体的に厚みを増す…はずだ。

テレビでは2年目の3.11を迎え特集番組をやっている。
語る側の言葉が切実さをすっかり失っているように感じる。
エゴイスティックな善意だけが無反省に前景化して、一時期萌芽していた視点の転換は姿をひそめた。
私たちは新しい言葉を探し出さねばならなかったはずなのに未だそれを怠っているのではないのか。

俳優部の学生諸君へ

大学の外から来て頂いたキャストでは、これまでブログで書いてきた人たち以外にも、宇野祥平さん、宮﨑将さんなど、皆さんがこの映画そして学生たちに大きなものを残していった。「遥」役の早川紗月ちゃんを含め。ホントに。
そうした方々にも感謝。
将さんも祥平さんも紗月ちゃんも僕は初めての仕事だったのだが、それぞれにまったく僕の想像を超えた「人物」を創り上げてくれた。こういうことが映画の楽しさだね!

そんな中でいろんな形でこの映画に出演してくれた学生諸君にも感謝。
「オーディションで落ちたからもう出ない」なんて言ってた人たちも結果快く(笑)参加してくれたり、「ゼンゼン今日ここで撮影だって知らなかったんだけどたまたま通りかかってラッキーだったです!」と言いながら通行人で出てくれた大西礼芳やぎぃ子がいたり、思いもかけなかった人が頭を丸刈りにして「少年院」の椅子に座ってくれてたり…。
君たち全員の存在が間違いなくこの映画には反映されているからね。

で、話は変わるが。
俳優は現場が終わったらそれで終わり、である(出演以外にケータリングなどで随分貢献してくれた人もいたけれど)。
でも君たちは今回の「俳優部」であったと同時に、映画学科の学生なのだ。
自分が演じた結果を確かめるのは当然のことだと思って欲しい。
自分が関わった映画がどういうふうにできあがっていくのかを、しっかりと見つめて欲しい。
それを、編集の経過も含めて観ることができる環境はプロの俳優状況ではなかなかないことだと思う。
4月から始まる「北白川派編集」の授業で随時行う「編集ラッシュ」に来てみたらどうだろうか。
得るものは絶対にあるはずだ。

でも、今回は非常に素材が多いのでやはりいろんな部分を切ってしまうことになるかもしれない。
なので…出演したシーンがない、というケースがあり得るのかも。
そのときはごめん。

というか、映画とはそういうものなんだよ。
と同時に、切る基準は俳優の演技ではゼンゼンないので、自分のシーンがなかったりしても気にしないでね。

撮了

クランクアップした。
「クランクアップ」というのは「撮影終了」という意味であり、他の方々のブログにもあるように映画がこれでできあがったわけでは全くない。ひとつの行程を我々は通過した、のだ。
しかし編集に入ろうが仕上げに入ろうがそこに「撮影素材」がなくては何もできないわけである。
事故もなく無事に全てのシーンの撮影を終えることができたのは実はたいへんなことであり、関わった多くの皆さんに心から感謝したいと思う。

ありがとうございました。

映画を作るということは本当に様々な人を巻き込み、お世話になり、端的に言ってしまえば面倒や迷惑を強いる結果になる。
さらに言えば(前にも書いたが)それは「表現」として今後もどこかで人を「傷つけ」続けていくだろう。
我々は決してそれらを当たり前のことだと思ってはいけない。
常に頭を低く垂れ、自分の行為の結果と向き合い続けねばならない。
表現者は、映画を作る者は、絶対に傲慢であってはならない。
「ありがとうございました」は何回言っても言い足りないものなのだ。「すみません」は何回口に出してもまだまだ言い続けたくなるものなのだ(もちろん、簡単に「すみません」と口にしてはいけない場合もある。全てを引き受けじっと耐えて沈黙を守らねばならない場合もある)。

その先に、我々の、映画の「覚悟」がある。
心を込めて映画を作るという意志がある。

以前から繰り返しているし、また既に方々から指摘も受けているが、ことにこの映画は「人の傷に触れる厳しいモチーフ」を包み込んでいる。
物語とはあくまで架空のものであるが、やはりこの映画から二年前の震災を想い起す人は多いだろう。
2万人を超える死者負傷者行方不明者がそこにはあり「残された人々」の今後には未だ「確約された復興」は提示されておらず、原発事故は10数万の避難者を生みさらにその影響が今後どのようなことになるのか誰も明確に把握できていない。
そういった人々のそれぞれに「生活」がある。いま、ひとりひとりが一人一人の事情を抱えて生きている。
生きるということはともかく「明日」を信じるということであろう。
我々は必死に「明日」を信じようとする。
だが同時に、「二年前のこと」はもしかしたら、「二年後のこと」であるのかもしれない。

この国では虐待死が年間50件を超えている。
顕在化していないものも含めれば「虐待」は数万件にのぼると言われる。
彼らにとって、明日はどのような意味を持つのだろうか。

それでもこの国には、貧しい親と子が余裕をもって「豊かに」心を通わせながら生きていける環境はなく、原発は再稼働に向かっていく。
そういう為政をこの国の人々は選択している。

そんな人々に、この映画の「覚悟」は何をもたらすのだろうか。
この映画の中で生きる人物たちの様は、いったい人々に何を感じさせるのだろうか。

これからだ。

この映画はようやくこれから生まれていく。

「演出」

学生のブログ、上田がやっと更新してくれた。ありがとう。
でも演出部の更新はない…。

演出部に関しては、浅利ちゃんの指導により現場的にはずいぶんと成長してきたと思っている(さまざまなご批判もありましょうが)。ひとりひとりの学生ときちんと付き合いながらわかりやすく物事を教えていく浅利氏の功績大である。誰にでもうまくできるというものではない。演出部の段取りも少しずつ、良くなってきている。

ただ、今の、或いはこれからの「演出」に求められている(求められていく)のは、現場の段取りだけではなく、その映画そのものをいかに「デザイン」し、発信も含めて新しい発想や冒険を行為化していけるかというような部分もあるのでないだろうかと思っている。
前にも書いたが、このブログ自体がそういったひとつの実験でもあるのだし、今回の北白川派ではそういう意識も持たせたかったのだが…。
そのあたりができていないのはこれは全くもって僕の力量の不足であるのだろう。

映画は、物語が必要とする「もうひとつの現実」をそこに具体的に準備して撮影行為をしていくものである。しかし実際の現場における「現実」は、空間的にも時間的にも当然その「もうひとつの現実」とは全く違うものであり、それを我々の思うような物語上の「もうひとつの現実」に仕立てていくためには実際の「現実」との折り合いをうまくつけていく必要が生じる。その作業のひとつひとつを「段取り」と呼ぶ。
映画を推し進めていくためには「段取り」は不可欠であり、良い段取りがなければ現場は進まないし、そこに撮るべき「もうひとつの現実」は生まれ得ない。

ただ(「ただ」が多いね)、「演出」というのはその段取りにプラスしてさらにその向こうに何を見据えるか、ということでもある。
相米慎二から、助監督のころ本番のときにいきなり役者の動線にバケツを置いたという話を聞いたことがある。
「だって現実ってそういうことじゃん」と、彼は楽しそうに笑っていた。
今は東京造形の学長である(もちろん同時に監督であるわけだけど)諏訪敦彦と一緒に演出部として仕事していたころ、彼はいつもカメラ脇で監督よりも後ろから現場を眺め、腕組みしながら「なんか…違うな」と呟いていた。普通で言うと「使えない助監督」である(笑)。

彼らの頭の中には、物語が要請する「もうひとつの現実」が常にイメージされていたのだと思う。それはさらに現場のテストを見ながら次々に更新されていく。
何がどうなれば「面白い」のか。
何をどうすればこの映画はもっと豊かになっていくのか。
そのイメージには、何事にも縛られない発想の自由性が保持されていなければならない。

演出部に対してはそういった「イメージする」トレーニングも今回の北白川派の現場ではやってみたかったのだが…できていない。
これもひとえに僕の力量不足である。

もう残された時間は僅かになってしまった。

ハリ扇 その2

一週間ほど前に「メイキング部」の田端が手製のハリ扇をプレゼントしてくれた。

「これ叩かれても全然痛くないわりに最っ高の音が出るんですよ」
…試してみたら確かにそのとおりなのである。

その後ずっとバッグに忍ばせてはいるのだが現場での出番はまだない。

田端、これ、いつ使おうか?

って言うか、これって、オレに誰かを叩かせてそこをメイキングで撮りたいっていう田端の陰謀じゃない?

監督たちの出演

昨日は鈴木卓爾さんが「各務泰志」役で出演してくれ、先日は大森立嗣さんが「小児科医」の役で出演してくれた。
このお二人、脚本や俳優の経歴もあるが、もちろん基本的には「監督」である。
僕は彼らのつくる映画が大好きであり、同時にそのそれぞれの人柄が大好きである。
大森さんについては、僕が審査員だった年の監督協会新人賞でノミネートされた際に僕は彼の作品『ゲルマニウムの夜』とは違う作品を推し結局そっちが受賞するというような経緯があって、そのときは「絶対福岡を殴ってやる」と思っていたらしいのだが(笑)今はなんとなく友達付き合いをしてくれている。…いつかまとめて殴られるのかもしれない。

二人ともさすがに素晴らしい存在感を見せてくれて、出演してもらったシーンは僕の想像以上に面白いものになった。
感謝感謝。

今回の映画には他にも、林海象さん、高橋伴明さん(顔が映ってないエキストラだけど)も出演している。柄本さんも監督作品があるし。
何人監督が出てるんだ、みたいな(笑)

大森さんも卓爾さんも監督として新作の公開や仕上げが控えている。
みなさんぜひご注目くださいませ。

「柳田」撮了

越部一徳さん演じる「柳田」のシーンが今日で撮影終了した。

一徳さんについては、水上さんのブログに尽きる。

岸部一徳という最高の役者の佇まいを見つめることができただけでも、学生にはとても大きな財産になったのだと思う。
いや僕自身にとっても、この映画にとっても、言いようのない大きな大きな力なのであり、僕は最後までこの映画を面白く仕上げねばならない責務を負う。

僕も何度か一徳さんから「映画を教えるって難しいよね?」と問われた。
僕はそもそも俳優と喋ることがそんなに得意ではなく、しかも問われる相手は岸部一徳であり、その都度むにゃむにゃとなんだか適当に答えた。
一徳さんはそのたびに次の言葉を継ぐことはなかった。

映画にも、演じることにも、監督することにも、映画を教えることにも、「正しい解答」はない。
絶対にない。
それを解っていて、なおかつ何かをさらに僕に考えさせるために一徳さんは何度もその問いを繰り返してくれたのではないだろうか。

僕は考え続けなければならない。

ん…でもひょっとしたら一徳さんはボクのそのいい加減な答えに毎回呆れていただけなのかもしれない。

…だったらダメじゃん。