「演出」

学生のブログ、上田がやっと更新してくれた。ありがとう。
でも演出部の更新はない…。

演出部に関しては、浅利ちゃんの指導により現場的にはずいぶんと成長してきたと思っている(さまざまなご批判もありましょうが)。ひとりひとりの学生ときちんと付き合いながらわかりやすく物事を教えていく浅利氏の功績大である。誰にでもうまくできるというものではない。演出部の段取りも少しずつ、良くなってきている。

ただ、今の、或いはこれからの「演出」に求められている(求められていく)のは、現場の段取りだけではなく、その映画そのものをいかに「デザイン」し、発信も含めて新しい発想や冒険を行為化していけるかというような部分もあるのでないだろうかと思っている。
前にも書いたが、このブログ自体がそういったひとつの実験でもあるのだし、今回の北白川派ではそういう意識も持たせたかったのだが…。
そのあたりができていないのはこれは全くもって僕の力量の不足であるのだろう。

映画は、物語が必要とする「もうひとつの現実」をそこに具体的に準備して撮影行為をしていくものである。しかし実際の現場における「現実」は、空間的にも時間的にも当然その「もうひとつの現実」とは全く違うものであり、それを我々の思うような物語上の「もうひとつの現実」に仕立てていくためには実際の「現実」との折り合いをうまくつけていく必要が生じる。その作業のひとつひとつを「段取り」と呼ぶ。
映画を推し進めていくためには「段取り」は不可欠であり、良い段取りがなければ現場は進まないし、そこに撮るべき「もうひとつの現実」は生まれ得ない。

ただ(「ただ」が多いね)、「演出」というのはその段取りにプラスしてさらにその向こうに何を見据えるか、ということでもある。
相米慎二から、助監督のころ本番のときにいきなり役者の動線にバケツを置いたという話を聞いたことがある。
「だって現実ってそういうことじゃん」と、彼は楽しそうに笑っていた。
今は東京造形の学長である(もちろん同時に監督であるわけだけど)諏訪敦彦と一緒に演出部として仕事していたころ、彼はいつもカメラ脇で監督よりも後ろから現場を眺め、腕組みしながら「なんか…違うな」と呟いていた。普通で言うと「使えない助監督」である(笑)。

彼らの頭の中には、物語が要請する「もうひとつの現実」が常にイメージされていたのだと思う。それはさらに現場のテストを見ながら次々に更新されていく。
何がどうなれば「面白い」のか。
何をどうすればこの映画はもっと豊かになっていくのか。
そのイメージには、何事にも縛られない発想の自由性が保持されていなければならない。

演出部に対してはそういった「イメージする」トレーニングも今回の北白川派の現場ではやってみたかったのだが…できていない。
これもひとえに僕の力量不足である。

もう残された時間は僅かになってしまった。

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8月6日

まずは…。
有吉さんのチャレンジングな仕掛けで、編集ラッシュに対する劇場のご意見が公開された。
第七藝術劇場、イメージフォーラム、名古屋シネマテークの支配人の方々の言葉が並ぶのはやはりある種壮観です。
というか、すごく恐怖です…。

松村支配人、山下支配人のご意見に対しては、「言葉で返すのではなく編集で返さねばならないのだ!」という編集の歓さんの言に従い編集を重ねた。
オールラッシュ版を観ていただき次のご意見を待つしかない…。

そして…。
今日は8月6日、広島に原爆が落とされた日である。
9日は長崎に同様のことが行われた日となる。

今回の映画では、言わばそうした「爆弾」を「落とす」ことを選んでいる。

これまでも繰り返してきたが、私たちの映画は本当にいろんな大きなことを抱え込んでしまっている。

先の選挙で大勝した現政府は、原発の再稼働や輸出を推進し、あらゆる状況での核使用や核拡散への反対に背を向け、核廃絶への方向へは向かわないことを明確にしている。

4か月ぶりの更新 オールラッシュ!

「わかりやすい映画」「見やすい映画」は退屈でつまらない。
映画で本当に何かが「伝わる」のだろうか。
映画は「メッセージ」や「観念」を「理解してもらう」ためのものでは決してない。そんなものを「伝えるツール」では絶対にない。

そう思っている。

映画は人間を描く。
僕にとって「人間」や「世界」は未だ不可解なものであり解釈不能なものであり、であるからこそそこに想像と考察そして発見の喜びが存在する。

想像と発見の喜びがそこにあることが映画の豊かさであると思っている。
だから僕は「わかりやすさ」や「観やすさ」を映画に求めない。

想像させること。
発見させること。
そんな映画をつくるためには、僕たち自身が想像し続け考察し続けることをしなければならない。
僕たちは、人間や世界について何も知らないのだから。

「今の観客は想像しないのだよ」とよく言われる。
では僕たちは僕たちの映画を諦めるのか。

セミオールの前夜、僕と編集の鈴木歓は、ほんのちょっとした編集作業を行うことで、それまでは想定していなかった物語がそこに立ち上がることを発見した。
映画の相貌が立体的に動き出した。
そんな喜びを観客と共有したいから僕たちは最後の最後まで諦めない。

今日がオールラッシュである。

夢 その2

既に次の組(緒方明組)に入った浅利ちゃんからメールが来た。
本人に了解を得たので、以下コピーします。

<件名>
緒方組始動しました
<本文>
東急文化村前で山本さんに精算を渡し、ステューディオスリーで待ち合わせて、森重さん、緒方さんと打ち合わせ…。
今年卒業する学生2人をスタッフとして招き入れる事になり、勿論浅利車も使う事になり、なんか繋がってるな~とか思い…。
明日から、色々な事が起きるんだろうなぁ~って思っていれば、いま毎日見ている、『正しく生きる』の追撮や、子どもたちを叱ったり、一緒に笑ったりしてる夢は見なくなりますかね~(笑)。    浅利

夢はどんどんと更新され、次々に、「いつか見た」夢になっていく。
飲もうぜ、浅利ちゃん。

東京に戻ると相変わらずいろんなことがうまく進まずよく眠れない。
深夜というか明け方うとうとしていると現場の夢をみた。
シナリオの段階でオミットしたシーンを撮影している。
自分が試してみようと思ったことを演出部に指示している。
もちろんそのシーンは現実には存在しない。

そういった試行錯誤、検証、選択、視点の転換…が多いほど、映画は立体的に厚みを増す…はずだ。

テレビでは2年目の3.11を迎え特集番組をやっている。
語る側の言葉が切実さをすっかり失っているように感じる。
エゴイスティックな善意だけが無反省に前景化して、一時期萌芽していた視点の転換は姿をひそめた。
私たちは新しい言葉を探し出さねばならなかったはずなのに未だそれを怠っているのではないのか。

俳優部の学生諸君へ

大学の外から来て頂いたキャストでは、これまでブログで書いてきた人たち以外にも、宇野祥平さん、宮﨑将さんなど、皆さんがこの映画そして学生たちに大きなものを残していった。「遥」役の早川紗月ちゃんを含め。ホントに。
そうした方々にも感謝。
将さんも祥平さんも紗月ちゃんも僕は初めての仕事だったのだが、それぞれにまったく僕の想像を超えた「人物」を創り上げてくれた。こういうことが映画の楽しさだね!

そんな中でいろんな形でこの映画に出演してくれた学生諸君にも感謝。
「オーディションで落ちたからもう出ない」なんて言ってた人たちも結果快く(笑)参加してくれたり、「ゼンゼン今日ここで撮影だって知らなかったんだけどたまたま通りかかってラッキーだったです!」と言いながら通行人で出てくれた大西礼芳やぎぃ子がいたり、思いもかけなかった人が頭を丸刈りにして「少年院」の椅子に座ってくれてたり…。
君たち全員の存在が間違いなくこの映画には反映されているからね。

で、話は変わるが。
俳優は現場が終わったらそれで終わり、である(出演以外にケータリングなどで随分貢献してくれた人もいたけれど)。
でも君たちは今回の「俳優部」であったと同時に、映画学科の学生なのだ。
自分が演じた結果を確かめるのは当然のことだと思って欲しい。
自分が関わった映画がどういうふうにできあがっていくのかを、しっかりと見つめて欲しい。
それを、編集の経過も含めて観ることができる環境はプロの俳優状況ではなかなかないことだと思う。
4月から始まる「北白川派編集」の授業で随時行う「編集ラッシュ」に来てみたらどうだろうか。
得るものは絶対にあるはずだ。

でも、今回は非常に素材が多いのでやはりいろんな部分を切ってしまうことになるかもしれない。
なので…出演したシーンがない、というケースがあり得るのかも。
そのときはごめん。

というか、映画とはそういうものなんだよ。
と同時に、切る基準は俳優の演技ではゼンゼンないので、自分のシーンがなかったりしても気にしないでね。

撮了

クランクアップした。
「クランクアップ」というのは「撮影終了」という意味であり、他の方々のブログにもあるように映画がこれでできあがったわけでは全くない。ひとつの行程を我々は通過した、のだ。
しかし編集に入ろうが仕上げに入ろうがそこに「撮影素材」がなくては何もできないわけである。
事故もなく無事に全てのシーンの撮影を終えることができたのは実はたいへんなことであり、関わった多くの皆さんに心から感謝したいと思う。

ありがとうございました。

映画を作るということは本当に様々な人を巻き込み、お世話になり、端的に言ってしまえば面倒や迷惑を強いる結果になる。
さらに言えば(前にも書いたが)それは「表現」として今後もどこかで人を「傷つけ」続けていくだろう。
我々は決してそれらを当たり前のことだと思ってはいけない。
常に頭を低く垂れ、自分の行為の結果と向き合い続けねばならない。
表現者は、映画を作る者は、絶対に傲慢であってはならない。
「ありがとうございました」は何回言っても言い足りないものなのだ。「すみません」は何回口に出してもまだまだ言い続けたくなるものなのだ(もちろん、簡単に「すみません」と口にしてはいけない場合もある。全てを引き受けじっと耐えて沈黙を守らねばならない場合もある)。

その先に、我々の、映画の「覚悟」がある。
心を込めて映画を作るという意志がある。

以前から繰り返しているし、また既に方々から指摘も受けているが、ことにこの映画は「人の傷に触れる厳しいモチーフ」を包み込んでいる。
物語とはあくまで架空のものであるが、やはりこの映画から二年前の震災を想い起す人は多いだろう。
2万人を超える死者負傷者行方不明者がそこにはあり「残された人々」の今後には未だ「確約された復興」は提示されておらず、原発事故は10数万の避難者を生みさらにその影響が今後どのようなことになるのか誰も明確に把握できていない。
そういった人々のそれぞれに「生活」がある。いま、ひとりひとりが一人一人の事情を抱えて生きている。
生きるということはともかく「明日」を信じるということであろう。
我々は必死に「明日」を信じようとする。
だが同時に、「二年前のこと」はもしかしたら、「二年後のこと」であるのかもしれない。

この国では虐待死が年間50件を超えている。
顕在化していないものも含めれば「虐待」は数万件にのぼると言われる。
彼らにとって、明日はどのような意味を持つのだろうか。

それでもこの国には、貧しい親と子が余裕をもって「豊かに」心を通わせながら生きていける環境はなく、原発は再稼働に向かっていく。
そういう為政をこの国の人々は選択している。

そんな人々に、この映画の「覚悟」は何をもたらすのだろうか。
この映画の中で生きる人物たちの様は、いったい人々に何を感じさせるのだろうか。

これからだ。

この映画はようやくこれから生まれていく。

「演出」

学生のブログ、上田がやっと更新してくれた。ありがとう。
でも演出部の更新はない…。

演出部に関しては、浅利ちゃんの指導により現場的にはずいぶんと成長してきたと思っている(さまざまなご批判もありましょうが)。ひとりひとりの学生ときちんと付き合いながらわかりやすく物事を教えていく浅利氏の功績大である。誰にでもうまくできるというものではない。演出部の段取りも少しずつ、良くなってきている。

ただ、今の、或いはこれからの「演出」に求められている(求められていく)のは、現場の段取りだけではなく、その映画そのものをいかに「デザイン」し、発信も含めて新しい発想や冒険を行為化していけるかというような部分もあるのでないだろうかと思っている。
前にも書いたが、このブログ自体がそういったひとつの実験でもあるのだし、今回の北白川派ではそういう意識も持たせたかったのだが…。
そのあたりができていないのはこれは全くもって僕の力量の不足であるのだろう。

映画は、物語が必要とする「もうひとつの現実」をそこに具体的に準備して撮影行為をしていくものである。しかし実際の現場における「現実」は、空間的にも時間的にも当然その「もうひとつの現実」とは全く違うものであり、それを我々の思うような物語上の「もうひとつの現実」に仕立てていくためには実際の「現実」との折り合いをうまくつけていく必要が生じる。その作業のひとつひとつを「段取り」と呼ぶ。
映画を推し進めていくためには「段取り」は不可欠であり、良い段取りがなければ現場は進まないし、そこに撮るべき「もうひとつの現実」は生まれ得ない。

ただ(「ただ」が多いね)、「演出」というのはその段取りにプラスしてさらにその向こうに何を見据えるか、ということでもある。
相米慎二から、助監督のころ本番のときにいきなり役者の動線にバケツを置いたという話を聞いたことがある。
「だって現実ってそういうことじゃん」と、彼は楽しそうに笑っていた。
今は東京造形の学長である(もちろん同時に監督であるわけだけど)諏訪敦彦と一緒に演出部として仕事していたころ、彼はいつもカメラ脇で監督よりも後ろから現場を眺め、腕組みしながら「なんか…違うな」と呟いていた。普通で言うと「使えない助監督」である(笑)。

彼らの頭の中には、物語が要請する「もうひとつの現実」が常にイメージされていたのだと思う。それはさらに現場のテストを見ながら次々に更新されていく。
何がどうなれば「面白い」のか。
何をどうすればこの映画はもっと豊かになっていくのか。
そのイメージには、何事にも縛られない発想の自由性が保持されていなければならない。

演出部に対してはそういった「イメージする」トレーニングも今回の北白川派の現場ではやってみたかったのだが…できていない。
これもひとえに僕の力量不足である。

もう残された時間は僅かになってしまった。

ハリ扇 その2

一週間ほど前に「メイキング部」の田端が手製のハリ扇をプレゼントしてくれた。

「これ叩かれても全然痛くないわりに最っ高の音が出るんですよ」
…試してみたら確かにそのとおりなのである。

その後ずっとバッグに忍ばせてはいるのだが現場での出番はまだない。

田端、これ、いつ使おうか?

って言うか、これって、オレに誰かを叩かせてそこをメイキングで撮りたいっていう田端の陰謀じゃない?

監督たちの出演

昨日は鈴木卓爾さんが「各務泰志」役で出演してくれ、先日は大森立嗣さんが「小児科医」の役で出演してくれた。
このお二人、脚本や俳優の経歴もあるが、もちろん基本的には「監督」である。
僕は彼らのつくる映画が大好きであり、同時にそのそれぞれの人柄が大好きである。
大森さんについては、僕が審査員だった年の監督協会新人賞でノミネートされた際に僕は彼の作品『ゲルマニウムの夜』とは違う作品を推し結局そっちが受賞するというような経緯があって、そのときは「絶対福岡を殴ってやる」と思っていたらしいのだが(笑)今はなんとなく友達付き合いをしてくれている。…いつかまとめて殴られるのかもしれない。

二人ともさすがに素晴らしい存在感を見せてくれて、出演してもらったシーンは僕の想像以上に面白いものになった。
感謝感謝。

今回の映画には他にも、林海象さん、高橋伴明さん(顔が映ってないエキストラだけど)も出演している。柄本さんも監督作品があるし。
何人監督が出てるんだ、みたいな(笑)

大森さんも卓爾さんも監督として新作の公開や仕上げが控えている。
みなさんぜひご注目くださいませ。

「柳田」撮了

越部一徳さん演じる「柳田」のシーンが今日で撮影終了した。

一徳さんについては、水上さんのブログに尽きる。

岸部一徳という最高の役者の佇まいを見つめることができただけでも、学生にはとても大きな財産になったのだと思う。
いや僕自身にとっても、この映画にとっても、言いようのない大きな大きな力なのであり、僕は最後までこの映画を面白く仕上げねばならない責務を負う。

僕も何度か一徳さんから「映画を教えるって難しいよね?」と問われた。
僕はそもそも俳優と喋ることがそんなに得意ではなく、しかも問われる相手は岸部一徳であり、その都度むにゃむにゃとなんだか適当に答えた。
一徳さんはそのたびに次の言葉を継ぐことはなかった。

映画にも、演じることにも、監督することにも、映画を教えることにも、「正しい解答」はない。
絶対にない。
それを解っていて、なおかつ何かをさらに僕に考えさせるために一徳さんは何度もその問いを繰り返してくれたのではないだろうか。

僕は考え続けなければならない。

ん…でもひょっとしたら一徳さんはボクのそのいい加減な答えに毎回呆れていただけなのかもしれない。

…だったらダメじゃん。

前言撤回およびトンカツについて

更新はやめると言いましたが、ごくごく一部「復活を期待します」などの言葉をいただき更新復活です。
そういう言葉に弱いボクなのでやっぱり書こうかなみたいな…。
しかもなんだか歓ちゃんのブログでは卓爾&歓がボクを夕食に誘ったにもかかわらず「撮影で胃が痛い」という理由でボクが断ったと書いているわけで、それではいかにもボクが繊細に神経を痛めているようですごくそれはとても不本意であり違うのではないかとやはり抗弁したい気にもなり。

誘いを断った理由は単に行き先が「トンカツ屋」だったということだけなわけで。だって「トンカツ」って結構しんどくない? って言うか意外とハードだよもうこの年になると。いや別においしいトンカツはおいしいと思うしトンカツを貶める気は全くないし、今日卓爾さんから「おいしかったっすよ」っていかにそれが素晴らしいトンカツであったのか詳細を聞いたりすると「ああぜひ今度は行ってみたいよね」なんて気にはなるわけですけど、でも昨日の時点ではちょっとどうだかって気分であり、だから「普通の飲み屋に行こう」って言ったんだけど卓爾さんが「いや明日は撮影だからディープに飲んでしまうとヤバいので」ってことになり、じゃあ俺はトンカツだったら行かないよ、って…。
実はディープに飲ませて今日の撮影でグダグダになってるところを見たいって陰謀だったわけですけど、さすがに卓爾先生はそのボクの罠には引っかからなかったってことなんですね(笑)

って…ゼンゼンわざわざ「更新復活」とかって書くほどのことでもなんでもなかったね…。

ハリ扇!

Mという兄弟がいる。
ホントの兄弟ではないが30年来の付き合いでいろんなことがあり、この年齢になって唯一心を許せる「兄弟分」なのである。
そのMが先週撮影現場に来てくれ、彼は和歌山に住んでいてなかなかそこから出てこないのでそれはホントに数年ぶりの再開であったのだが、揚句に「映画に使うてや」と、かなりの金を置いて行った。
バカである。

そのMから昨夜また電話があり(当然彼は酔っぱらっており)「その後どうやねん…」。
このブログも見てるようで「学生のことなんか考えたらあかん。ただ、おもろい映画を作ることだけしか考えるな」と叱られる。
出会った当時の彼は映画の制作部だったがその後様々なことを経てここ20年ほどは私塾の先生である。「学生が言うこと聞かんかったら殴ったったらええ。体罰があかん言うのやったらハリ扇でぶっとばしたったらええんや。それは体罰やのうてギャグやろ。いつもハリ扇持っとけや」…。

現場でハリ扇かよ…。

そんなこんなの合間に小川さんのブログを見る。
…「学生も疲れている」。
…学生はホントに疲れているのか。

こんな現場で疲れるくらいならみんな映画なんてやめてしまえと本気で思う。

今回はこれまでの北白川派の中で最も多くの日数をかけたスケジュールを組んでいる。予算がないにもかかわらずあえて日々の撮影スケジュールを「詰め込む」ことはせず、キャストは時間をかけて自分を作ることをでき、スタッフはラッシュを見て方法論を修正したりといったこともできるような余裕を作っている。
それは、このブログにも書いてきたように、スタッフキャストともに非常に今回はひとりひとりの参加意識およびその表現スキルといった面でハードルを高く設定しているので、とにかく少しでも時間をかけ、体力の消耗によって頭や心が働かなくなることを避けているのだ。半日で終わる撮影も多い。
当然日数が増えればそれだけ予算もかかるわけで、そこは北白川派役員の中でも賛否両論激しくあり論争検討があったがなんとか他の部分を削減することで認められて今回の、いわば若干「贅沢」な現場があるわけである。寒い現場から高原に戻れば暖かいケータリングも待っている。

にも関わらずホントに学生は疲労しているのか…。

これはただ学生を甘やかせているだけのことになっているのではないのか。

なんだそうだったのか…。

僕は、Mが言うように「ただ、おもろい映画を作ることだけを考える」方向に向かいたいと思う。
今更だが。

よってこのブログを更新することもやめます。
なんだかなんのために書いているのかわからなくなってきたので。

みんな出演…

編集の歓ちゃんのブログで、東北芸工大へ行くのに「北小路さんが遅刻」とあるが、映画批評家であり当学科の先生である北小路隆志さん、なんと2月9日と15日に「少年院の職員」という役で今回の映画に出演している。
学生の間では「コージー」と呼ばれて人気の高い北小路さん、さらにコージーファンが増えること必至(笑)。

15日には海象さんも同じく「少年院職員」として共演(二人の絡む芝居もあり)。
さらに14日には「介護施設の老人たち」として、いつもお世話になっている高原校舎管理スタッフの松本さん、今回の漫才担当の堰さん、おまけに録音の浦田さん、伴明さん、私までエキストラ出演。

その都度学生たちが「きゃーブログにアップしよう!」とかって写メなど撮りまくってるけど…いっこうにアップされる気配はなく…。

「金子」死す!

昨日今日と、学科の先生でもある水上竜士さん演じる「金子」が監禁されているシーンの撮影。
アクションもあったが無事終了。

シナリオ段階から想定していたキャスティングとは言え、本当に「金子」が水上さんで良かった。
ともすればステレオタイプに陥ってしまいがちな役柄を、ほとんど「縛られっぱなし」の状態でありながら見事にひとりの「男」として立体的に作り上げてくれた。

深く感謝。
情けない「ズボンションベン」までさせてしまってすみませんでした(笑)。

お詫びに終了後ビールでもと思ったのだけど、研究室に戻ったら今日がシラバス修正の締め切りだと指摘され…。
今は学科業務はほとんど伴明さんや山本さんにおっかぶせて知らんぷりをしてしまってるわけだがこれだけはそうもいかず…。

水上さん、ビールは必ず!

ニューラッシュ

ニューラッシュを見るたびに、ホントにほんの少しずつだが学生撮影スタッフの成長は感じる。
当然なのだが以前に比べるとある種の安定感さえ見える部分もあったり。
技術的スキルだけでなく、一部の学生は現場で役者の何を見つけどう対応するかを感覚として掴みかけてきたようにも思える。
そういったことは今回の北白川派の狙いであるので喜ばしい気持ちではある。

しかし、その映像が、プロフェッショナルな仕事と並んで劇場の観客の目に耐え得るところまで本当に到達しているのか…。我々はそこまでしっかりと学生を導くことができているのか…。

同時に、その「安定」した映像は本当にこの『正しく生きる』のルックとして適切なのか。
本来はもっと、対象にぶつかっていくような「危なっかしくて」「生々しい」映像が今回求められるルックなのではないのか。
登場人物たちの心の震えを捉え、観客に何かを発見させ、さらにその心を震えさせる映像…。

それは学生に委ねて済ませるべき領域ではない。我々のすべき「計算」なのだ。

我々はそれを緻密に計算して映画を組み立て、さらに同時に、確実に学生を成長に導かなければならない。

「柳田」と「白石」

昨日は、「バーGOSPEL」の撮影。

「すごく仲いいんだけど、実は共演ってほとんどないんだよね」と仰る柄本明さんと、岸部一徳さんが、目の前で「白石」と「柳田」を演じる。なんて贅沢なキャスティングだろう。
監督として至福のときである。
そこに学生キャストの「桜」が割り込んでくるシーン。
彼女にはこの経験を、カメラには映っていない一徳さんと柄本さんが待つテーブルに向かって歩いて行ったときの気持ちを、絶対に忘れて欲しくないと心から思う。

今回の撮影はこれにて終了の柄本さんと、伴明福岡で軽く食事に。
やや酔いもきたところで、現場での「よーいスタート」って掛け声についての話。

「よーいとスタートの短い間にドラマがあるんだよ」と、柄本さん。
「よーいとスタートの間に、ほんの少しだけ希望を感じる」と、福岡。
「お前ら、よーいスタートのたびにそんなこと考えとったら早死にしてまうで」と、伴明さん。

…。

「朝雄」と「優樹」

二日目の撮影も無事終了。

その後、連日のようにある「漫才チェック」。

朝雄と優樹のコンビは当然もともと漫才コンビだったわけでもなんでもない。
一人は今年の卒業生、一人は二回生、ともに今回のオーディションで残った二人。
その二人が、それぞれの「役作り」とはまた別に漫才コンビとしての完成度を求められる。
二人は毎日稽古を重ね悶え苦しんでいる。

その漫才がようやく面白くなってきた。
漫才の中にようやく「朝雄」と「優樹」が見えてきた。

ただの「ネタ」ではダメなのだ。
「朝雄と優樹が切実にやりたいと思っている漫才」で人を笑わせないとダメなのだ。

明後日が漫才シーン一発目の本番。

乞うご期待!

現場が近くていいんだけど

今日も撮影現場は学科校舎のすぐ近く。
映画学科はホントに住宅街の中にあるので実は常に「近隣対応」に細心の注意を払わねばならない。
けっこういろんな苦情も多いわけですよ。
そこで活躍して下さってるのが、学科に来ていただいている昼間の「管理担当」、夕方からの「警備担当」の方々。
常に我々と一緒に学科を支え、我々教職員が気づかない部分までフォローしてくれている。
警備担当の服部さんからは現場に差し入れまで頂戴し、今日は僕の腰を気遣ってマッサージ器具を持ってきて下さった。

みんなが「映画学科」なんだよね。
多多謝!!

皆様にご心配をおかけしております。
帰り際にも学生に、気をつけてねなんて言われ。
申し訳ない。

しかし、昨日伴明さんの口利きで、よく食事に行く「旬菜いかわ」の大将が紹介してくれた鍼の先生のところに今日も行き…なんだかほとんど良くなったかも、です。
すごいね! 人生で今回が初めてだったけど鍼は…って、あの先生がすごいのか。
多多謝!

「いかわ」さんは今回「海象チーム」とはまた別にケータリングでもお世話になります。
多多謝!

本日の昼食は海象ケータリングチームによる中華丼。おいしかった!
撮影の時はとにかく食い物が大事なんです。
多多謝!

で、腰はなんとかなりそうなんだけど、パソコンがいかれ…。本日修理に出し。
今タブレットで打ってんだけどどうも慣れないので思うように打てません。
申し訳ない。

とか言いつつ、明日は二日目だ!

クランクイン

本日無事クランクイン。
無事に入ることができたことがまず何より!なのです。
皆さんのおかげであります。

で、今日はワンシーンで予定通りに終了。
 
なんて贅沢なんだ!

学生のみんな、これは決して君たちを甘やかしているわけではないのだよ。
君たち全員、ひとりひとりが「考える時間」を充分に取ろうと、予算のない北白川派では本来は許されないこういうスケジュールを組んでいるのだよ。
君たちが考えなくなった瞬間、後半のスケジュールはすぐさま半分に縮減されるのです。

今年の北白川派は「与えられる」ものではない。
君たちは考え続けなければならない。

腰が

昨日の夕方突然腰が痛くなった。

普段は腰痛などまったくお付き合いがないし何かことさらに重いものを持ったりしたわけでもない。

のになぜ?

一晩明けたらよくなってるかもなんてタカを括ってたけど。
動けないし。
やばいじゃん。

あと一日

クランクインまで「あと三日」「あと二日」「あと一日」「クランクイン!」…って感じで更新していこうと思ってたのだけど昨日はその余裕がなく。
授業の成績付けも締切が迫り。

昨日は現場リハーサルのラッシュや漫才など。
ラッシュを観て、各パートの学生が自主的に集まり「チーフ会議」が開かれ、なんだかみんな深刻な顔で遅くまで話し合っていた。
朝雄と優樹コンビの漫才もずいぶん面白くなってきたがあともう一歩。もっと過激に。もっと「朝雄」と「優樹」の切実な気持ちを。

今回の北白川派は本当に、学生自身の創造性に対して求める部分が大きい。
学生にとってのハードルは高い。

それでも我々は(僕も含めて)既にこの『正しく生きる』という映画に召喚されているのであり、そして明日からさらにその映画の姿を追い求め続けねばならない。

さあ、やってみようぜ。

あと3日で

2月5日のクランクインまであと3日。

今日は朝から「お祓い」「オールスタッフキャストミーティング」実際の撮影現場での「リハーサル撮影」「漫才チェック」…という予定。

あと3日だよ…。

それでもホントに日々、越えなければならない問題や事件が立ち塞がってくる。
演出部の学生たちはここのところ毎日泣いている。

ああ、泣けばいいよ泣けば。
泣く子は育つんだから。
負った傷の数が増えるたびに、人に対するまなざしが優しくなっていくんだから。

って、オジサンは泣けないからつらいよね。

決定稿!

けっていこう…と打ち込むと「蹴って行こう」と最初は出るのだよ。
蹴っちまいたい全て…。

オフィシャルサイト移行を記念してというか実はすごく遅くなってしまいスタッフおよび関係諸氏をやきもきさせてしまったが、決定稿が上がりましたのでアップします。

同時にキャスト表もアップしたかったのだけどこれはいましばしお待ちを。

明日はどっちだ

撮影監督の小川さんが昨日「ヤバ傷」を負ってしまった(SHINJI OGAWA)…。
もちろんその恐い顔でどこかに出演してもらいます!

伴明さんが体調不良で今朝病院に行ったら「原因はストレスと過労」と診断されてしまった…。
お願いだから少し休んでください! ってかすみません全部ボクのせいです!

助監督の浅利ちゃんが持病の血圧が上がり今朝はさすがにヤバい状態だった…。
食事に気をつけてください! ってかそれも原因はストレス!?

監督が今日もまだ決定稿を上げられないままだった…。
どうすんだよ!!

それでも今日、「未夢」が働いているシーン(決定稿で新たに追加)の取材で、制作部のあさひが探してくれた近所のデイケア介護の施設に学生と一緒に行き、そこのオーナー所長さんに話を聞くことができて…その方が人間的にとてもとても素晴らしい方で…。
「正しく生きる」ということはどういうことかを本当にあらためて見せつけられ。
「未夢」役を演じるみずきもひとつ吹っ切れたようだし、「人物設定」を話し合った今晩のキャスト&演出部のミーティングでは「朝雄」や「優樹」もかなり輪郭を掴めたようで。

早くお祓いに行こうよ的な状況もありつつ感動的な出会いもありつつ…とかなんとか言いながら、ついに明日から「衣小合わせ」が始まるわけで。
昨日も今日もホントに遅くまで衣裳担当の辻野さん始め学生たちは働きづめで…。
申し訳ない!

ってことで。
明日はどっちだ!

学生スタッフ増える!

年末くらいから、いつのまにか学生スタッフが増えてきている。

リハーサルやミーティングのたびに「今日から参加です、よろしくお願いしまーす」なんてゆーことがあり、しかも全員がいかにも前から参加してたようにどんどん動いてくれている。

うれしいよね。
みんなありがとう!

スタッフは減っていくより増えていったほうがいいし、少しでもこの映画にひとりひとりが自分の何かを反映して欲しいし、そしてひとりひとりが何かを得て欲しいし。

あとは決定稿が早くできあがればね。
って、オレか…。

スタイリング

「CLASS ROOM」で、ぴーこが、今回の映画の衣裳を担当してくださる辻野さんのことを書いてくれている。

辻野さんは前回の北白川派『彌勒』(林海象監督)でも衣裳をやって頂いた。
で今回もお願いしたのだが、あまりにも予算がないので、基本的には外部キャストのものだけをお願いした。
だがご本人から、「全部やりますよ。映画だから、どこかで手を抜いてるように見られちゃダメです」と仰っていただき…。

「柳田」の衣裳は素晴らしい生地を使っての「仕立て」となる。…「いやぁ、知り合いのテーラーがいて…」。
「防護服」は本物が手に入った。…「いやぁ、知り合いにホントのところに納入してる業者がいて…」。

…辻野さんってどんな人なんだ!

リハーサルにも付き合い、映画の内容にも深く関わってくれる。
こういう人のスタイリングがあって初めて映画が映画らしく生まれていく。

深く深く感謝!!

よろしくお願い致します!

教員も

水上さんがロケハンの写真をアップしてくれている。

このロケハンには水上さんも伴明さんも一緒で、水上さんは自分の車を出してずっと運転してくれ、さらにこういった写真を撮ってブログにアップし…ではこのとき伴明さんは何をしていたかと言うと…写真に映っている我々の視線の先、道路にかかる陸橋の上で、寒い中じっと「スタンドイン」として立ってくれていたのだ…。

ロケハンから高原に戻ると海象さんが現場のケータリングの段取りを進めてくれている。
学生だけでなく、教員も全員参加の北白川派。
強靭な映画にならざるを得ないシステムなのである。

学生キャスト決定

先週10日のリハーサル後に、学生キャストの最終決定が行われた。
前にも書いたが、ことに男子のキャストには最後まで「セレクション」の意味合いがあったので、本人たちはつらかったと思う。
それでも決定しなければならない。
オーディションからリハーサルへとずっと付き合ってきた演出部の学生たちからもいろんな意見が出る。
そのあとの教員同士でのミーティングでもさまざまな検討がなされた。

で、11日のオールスタッフミーティングで発表。
すぐに、「選ばれなかった」学生たちに集まってもらい、話をする。
誤解を恐れずに言えば、「選ばれた人たち」より「選ばれなかった人たち」のほうが大事なのだ。
その役に選ばれなかったからと言って、彼らとここで「さよなら」というわけではない。
オーディションから含めて、参加する意志を持ってくれたすべての学生の力がこの映画には必要なのだ。

映画の中に登場する「人物」というのは、たとえ一瞬しか映像には映らない、或いは声だけしか登場しない、ということであっても、その全員がそこに「当たり前」に存在していなければならない。そこに登場する全ての人物が、それぞれの人生の主役であり、どの人物をとってもそこでひとつの物語ができるような存在でなくてはならない。「フレームを埋めるためにただ横切る」わけでは決してないのだ。

さらにその後12日に再度演出部で会議、ほとんどの学生キャストが固まった。

彼らひとりひとりの持っているものを、どうやってこの映画に反映させていくか。
同時に、この映画に関わることが少しでも彼らの成長につながったということにしていかなければいけない。
と言うか、ひとりひとりが確実に何かを獲得し成長していって欲しい。

全員参加の北白川派。
それがこの映画を立体的に創りあげていく。

生き残る

ブログ管理人の歓ちゃんから、映画のことだけでなく「わたくしごと」も書け!と言われているので「わたくしごと」まで書くと…老親たちの介護や東京でのもろもろがホントに思うようには進まず時間や体や脳みそがいくつあっても足りない…。しかも体も脳みそもあきらかに経年劣化を見せているしね(笑)。
ってまあそんなことはやるしかないのでひとつひとつやるだけなのだが、それやこれやを掻い潜りながら映画のための取材資料を見直したり新たな取材をして脚本の改訂を急ぐ。

で、昨日また新しい資料に出会う。
関東大震災の際の写真。非公開の、というかまったく個人的な写真。まさに死屍累々の。

3.11も同様だが、我々はこういった事態を前に言葉を失くし無力感に支配される。映画や文学などといった表現は有効性を失い何もできないのではないかという議論が必ず出てくる。
いやそうではないと思う。
それでも概ねの人々は「生き残り生きていく」のだから。僕は「生き残り生きていく」のだから。
目を見開き耳をそばだて「生き残り生きていく」人々に向き合い見つめ続けることが表現なのだと思う。
死者たちを忘れ去るということでは決してなく、それをただの「悲劇」で括ってしまわないためにも。

災害や事故だけではなく人はいつか死ぬ。愛する人々の死に会う。生き残る人に何かが残されていく。その人もいずれ死ぬ。そしてまた…。

僕の父は絵描きであるが身体を悪くしてずっと絵筆を持てないでいた。
それが最近、また絵を描き始めようとしている。いくつものキャンバスに下塗りをしている。

人はなぜ生きようとするのだろうか。
表現とは何なのだろうか。

ああ、なんだかバラバラな文章になっちゃったな…。ブログ用の文章ってどう考えればいいんだ…。