ブログ管理人の歓ちゃんから、映画のことだけでなく「わたくしごと」も書け!と言われているので「わたくしごと」まで書くと…老親たちの介護や東京でのもろもろがホントに思うようには進まず時間や体や脳みそがいくつあっても足りない…。しかも体も脳みそもあきらかに経年劣化を見せているしね(笑)。
ってまあそんなことはやるしかないのでひとつひとつやるだけなのだが、それやこれやを掻い潜りながら映画のための取材資料を見直したり新たな取材をして脚本の改訂を急ぐ。
で、昨日また新しい資料に出会う。
関東大震災の際の写真。非公開の、というかまったく個人的な写真。まさに死屍累々の。
3.11も同様だが、我々はこういった事態を前に言葉を失くし無力感に支配される。映画や文学などといった表現は有効性を失い何もできないのではないかという議論が必ず出てくる。
いやそうではないと思う。
それでも概ねの人々は「生き残り生きていく」のだから。僕は「生き残り生きていく」のだから。
目を見開き耳をそばだて「生き残り生きていく」人々に向き合い見つめ続けることが表現なのだと思う。
死者たちを忘れ去るということでは決してなく、それをただの「悲劇」で括ってしまわないためにも。
災害や事故だけではなく人はいつか死ぬ。愛する人々の死に会う。生き残る人に何かが残されていく。その人もいずれ死ぬ。そしてまた…。
僕の父は絵描きであるが身体を悪くしてずっと絵筆を持てないでいた。
それが最近、また絵を描き始めようとしている。いくつものキャンバスに下塗りをしている。
人はなぜ生きようとするのだろうか。
表現とは何なのだろうか。
ああ、なんだかバラバラな文章になっちゃったな…。ブログ用の文章ってどう考えればいいんだ…。