学生のブログ、上田がやっと更新してくれた。ありがとう。
でも演出部の更新はない…。
演出部に関しては、浅利ちゃんの指導により現場的にはずいぶんと成長してきたと思っている(さまざまなご批判もありましょうが)。ひとりひとりの学生ときちんと付き合いながらわかりやすく物事を教えていく浅利氏の功績大である。誰にでもうまくできるというものではない。演出部の段取りも少しずつ、良くなってきている。
ただ、今の、或いはこれからの「演出」に求められている(求められていく)のは、現場の段取りだけではなく、その映画そのものをいかに「デザイン」し、発信も含めて新しい発想や冒険を行為化していけるかというような部分もあるのでないだろうかと思っている。
前にも書いたが、このブログ自体がそういったひとつの実験でもあるのだし、今回の北白川派ではそういう意識も持たせたかったのだが…。
そのあたりができていないのはこれは全くもって僕の力量の不足であるのだろう。
映画は、物語が必要とする「もうひとつの現実」をそこに具体的に準備して撮影行為をしていくものである。しかし実際の現場における「現実」は、空間的にも時間的にも当然その「もうひとつの現実」とは全く違うものであり、それを我々の思うような物語上の「もうひとつの現実」に仕立てていくためには実際の「現実」との折り合いをうまくつけていく必要が生じる。その作業のひとつひとつを「段取り」と呼ぶ。
映画を推し進めていくためには「段取り」は不可欠であり、良い段取りがなければ現場は進まないし、そこに撮るべき「もうひとつの現実」は生まれ得ない。
ただ(「ただ」が多いね)、「演出」というのはその段取りにプラスしてさらにその向こうに何を見据えるか、ということでもある。
相米慎二から、助監督のころ本番のときにいきなり役者の動線にバケツを置いたという話を聞いたことがある。
「だって現実ってそういうことじゃん」と、彼は楽しそうに笑っていた。
今は東京造形の学長である(もちろん同時に監督であるわけだけど)諏訪敦彦と一緒に演出部として仕事していたころ、彼はいつもカメラ脇で監督よりも後ろから現場を眺め、腕組みしながら「なんか…違うな」と呟いていた。普通で言うと「使えない助監督」である(笑)。
彼らの頭の中には、物語が要請する「もうひとつの現実」が常にイメージされていたのだと思う。それはさらに現場のテストを見ながら次々に更新されていく。
何がどうなれば「面白い」のか。
何をどうすればこの映画はもっと豊かになっていくのか。
そのイメージには、何事にも縛られない発想の自由性が保持されていなければならない。
演出部に対してはそういった「イメージする」トレーニングも今回の北白川派の現場ではやってみたかったのだが…できていない。
これもひとえに僕の力量不足である。
もう残された時間は僅かになってしまった。