鈴木歓先生の「映画演出Ⅳ」のブログを読んで。
こりゃ凄い授業だ。劇場公開映画の、しかも自分の関わった映画の編集を一からやれるなんて、しかも編集の先生からのアドバイスを受けながら、自分なりの映画を作れるなんてどこの学校でもやってないはずだ。
歓さんのブログには「全ては登場人物を生き生きと動かすことから始まります。登場人物たちが傷つき、悩み、考えることとあなたの想いが重なることから始まります。」とある。
劇映画撮影が机上の物語から生み出す仮想現実ならば、映画編集とはその仮想現実から生み出す想像への追求とも考えられるだろうか。
しまった。こんな事を書けば、歓さんや監督から「知ったかぶりすんじゃない、バカヤロ!」と怒られるかもしれない。
けど、僕は編集の先生ではないからあえて学生気分で続けてみる。
僕はこの大学に来るまでは俳優と脚本しかやってない。ところが、ここのところ表方も裏方も経験するうちに徐々に感じ始めている「編集」と「演技」という二つの領域について考えてみる。
まず、演技とはすべからくシナリオを基にする領域である。
シナリオにはセリフがあって、俳優はそのセリフにいかに真実味を持たせ、つまりどれだけリアルに演ずるかが醍醐味なわけで、そのシーンのセリフ、行動には常にサブテキストという登場人物達の真実の胸の内が隠されていると捉えている。
そのサブテキストとは、つまり観客が持つ筈のイメージ(想像)である。これは決して役者の説明ではない、観客がそうなのだろうと察する想像力の事だ。
その想像を導く為の演技はとてつもなく高度な技術を要するもので、隠された真実をあからさまに観客に説明した時点で、観客の想像は一切消えてなくなり単なる説明として終わってしまう。
であれば、観客が自由に想像を膨らませる為には、俳優は常に心情の説明を隠し通さねばならないわけだ。
では編集はどうだろう。
もし編集がその隠し通した演技を見抜く作業であって、セリフには書かれていない心の内を見事に作り出してしまう手品のようなものならば、きっとこの「映画演出Ⅳ」は恐るべき手品師を養成する為の、実に愉快で貴重な授業となるに違いない……。
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