塀の中のジュリアス・シーザーを観る。
舞台はイタリアの刑務所の中。
上演されるのはシェークスピアの悲劇「ジュリアス・シーザー」
演ずるのは服役している本物の犯罪者。
囚人達に芸術を体験させる為に毎年行われる舞台公演、その一作品の稽古から上演迄の道のりを描く作品だが、この役者達のほとんどが素人でしかも重犯罪者である事に驚かされる。
内容はそれほど山のあるものではなく感動も薄いのだが、役者ってなんだろうと思わされる一作だ。
KITASHIRAKAWA-HA No.5
塀の中のジュリアス・シーザーを観る。
舞台はイタリアの刑務所の中。
上演されるのはシェークスピアの悲劇「ジュリアス・シーザー」
演ずるのは服役している本物の犯罪者。
囚人達に芸術を体験させる為に毎年行われる舞台公演、その一作品の稽古から上演迄の道のりを描く作品だが、この役者達のほとんどが素人でしかも重犯罪者である事に驚かされる。
内容はそれほど山のあるものではなく感動も薄いのだが、役者ってなんだろうと思わされる一作だ。
iphoneから投稿してみる。
今日は朝から妻を関空まで送り、せっかく高速代を使うので大阪湾で釣りをする。
だが全く釣れずにすぐ帰る。
28日は船に乗る。
鈴木歓先生の「映画演出Ⅳ」のブログを読んで。
こりゃ凄い授業だ。劇場公開映画の、しかも自分の関わった映画の編集を一からやれるなんて、しかも編集の先生からのアドバイスを受けながら、自分なりの映画を作れるなんてどこの学校でもやってないはずだ。
歓さんのブログには「全ては登場人物を生き生きと動かすことから始まります。登場人物たちが傷つき、悩み、考えることとあなたの想いが重なることから始まります。」とある。
劇映画撮影が机上の物語から生み出す仮想現実ならば、映画編集とはその仮想現実から生み出す想像への追求とも考えられるだろうか。
しまった。こんな事を書けば、歓さんや監督から「知ったかぶりすんじゃない、バカヤロ!」と怒られるかもしれない。
けど、僕は編集の先生ではないからあえて学生気分で続けてみる。
僕はこの大学に来るまでは俳優と脚本しかやってない。ところが、ここのところ表方も裏方も経験するうちに徐々に感じ始めている「編集」と「演技」という二つの領域について考えてみる。
まず、演技とはすべからくシナリオを基にする領域である。
シナリオにはセリフがあって、俳優はそのセリフにいかに真実味を持たせ、つまりどれだけリアルに演ずるかが醍醐味なわけで、そのシーンのセリフ、行動には常にサブテキストという登場人物達の真実の胸の内が隠されていると捉えている。
そのサブテキストとは、つまり観客が持つ筈のイメージ(想像)である。これは決して役者の説明ではない、観客がそうなのだろうと察する想像力の事だ。
その想像を導く為の演技はとてつもなく高度な技術を要するもので、隠された真実をあからさまに観客に説明した時点で、観客の想像は一切消えてなくなり単なる説明として終わってしまう。
であれば、観客が自由に想像を膨らませる為には、俳優は常に心情の説明を隠し通さねばならないわけだ。
では編集はどうだろう。
もし編集がその隠し通した演技を見抜く作業であって、セリフには書かれていない心の内を見事に作り出してしまう手品のようなものならば、きっとこの「映画演出Ⅳ」は恐るべき手品師を養成する為の、実に愉快で貴重な授業となるに違いない……。
ここのところ映画をよく観ている。
「アルゴ」から始まり、「ジャンゴ 繋がれざる者」「千年の愉楽」「フライト」中でも好きなのはやはりタランティーノの「ジャンゴ」だろうか。
「千年の愉楽」に関しては、自分が出ているのでコメントを控えるが、最初と最後に出演している大西礼芳は他の役者に負けず劣らず堂々としたものだ。
彼女が「千年の愉楽」に出たきっかけは、「MADE IN JAPANこらッ!」を観たキャスティングプロデューサーが声を掛けてきたのだが、現場では若松監督の恫喝に必死に耐えて踏ん張っていた。
次はきっと「千年〜」を観た誰かが再び大西をキャスティングするに違いない。
役者の仕事ってこうしてコツコツと積木を積み上げていくようなものなのだろう。
いつか、築き上げた自分の名前が一人歩きしていくその日まで……。
頑張れ、礼芳!
4回生が卒業した。
中には「正しく生きる」に参加してくれた俳優コースたちもいて、夜には謝恩会から僕には珍しく2次会まで顔を出し、あげくにはお開きまで居残った。
それだけ色んな思いを脳裏に巡らす学生たちだった。
さみしくないと言えば嘘になるが、春にはまた新たな学生が現れると思えば、むせそうな胸の内もおさまりそうだ。
次の大西や土村、ぎぃ子や仙洞田、萌や航らのような味のある役者は出てくるだろうか。
育てるのはおまえの役目だろ、と言われそうだが、作り出すのは僕じゃない。
あくまで本人が努力してその時の”自分”を見つけ出していくものなのだ。
俳優ってそんなもんだ。
イバラの道だと良く言うけど、僕には痛くもかゆくもなかったね。
何をやっても楽しかった。毎日続く工事現場のアルバイトも金がなくての同棲生活も喧嘩も飲酒も多重恋愛も、芝居の稽古や本番があったからいつも満ち足りていた。足りないと言えば金だけで……。
社会に出る君らに告ぐ。
映画に出てくるような巡り合わせやチャンスってすぐにゃ来ないよ。
でも貧乏でも続けていれば必ず良い事だってあるもんだ。
僕の場合、幸福感を些細な事で感じられるようになったことだ……。
遅ればせながらARUGOを観た。
実話に基づく物語と冒頭にテロップされるが、これが実話かどうかを予め知る事が大きな鍵となる映画のような気がする。
一見 荒唐無稽に見える展開も実話だからこそ引き込まれていく節もある。
また実話だと思えばこそ政府と救出劇のもどかしさも生きてくる。
一つ一つのシークエンスが常にその”もどかしさ”とすでに洗脳されたリアリズム(実話)から緊迫を生んでいく。
血も流れずに、誰かが拳銃をぶっぱなすシーンも無く、その緊迫は連鎖し続ける。
だが、なぜこれがアカデミー賞の最高賞を獲得したか考えれば、その裏にも隠された実話が生まれてきそうだ。
ふと、ゼロダークなんとかも見てみたくなってきた……。
高原校舎が停電している。
にも関わらず、今日は午前中から研究室で溜まっていたメールの返信やら学生面談やら慌ただしく過ごす。
と、あろう事かメール文作成中に簡易電源に足を引っかけてシャットアウト。
その後にたこ足コンセントの不具合でシャットアウト、今日はもうこの事をブログに書いたら家に帰る。
只今、若松孝二監督遺作「千年の愉楽」が京都シネマにて上映中。
僕と4回生の大西礼芳が出演しています。
皆様、お見逃し無く!
昨日、福岡組は無事実景を撮り終え、全てにおいてオールアップした。
しかしこのブログに関して言えば、撮り終えた素材がいつの日か作品へと変わるまでさらに更新を続けていかなければならないと思っている。
つまり、ブログにクランクアップはないかもしれない。
当初はどれだけ忙しくなっても面倒になってもできる限りアップしなければいけないと使命感に燃えていた。
なぜなら、こんな事でもその積み重ねがいずれ配給にも繋がると信じたからだ。
実際、スタッフとして関わる学生以外の人たちからも「いつも読んでますよ」とか、「次の福岡組、面白そうですね」なんて言葉を貰った。その度にくじけそうな心も弾けとんだ。
現場ではどんな事が起こっているのか、今日は何があったのか、運転と雑用に走る僕には現場がどうなってるかはわからない。ほぼ98%現場を覗く事はできなかった。
だがそれでも身近にいる出演者や学生スタッフの顔を見ていれば今日の撮影がうまくいったか否かは想像できた。
現場を見れなかったのは僕だけではない。プロデューサーも制作主任も制作部も皆現場に何が起こっているのかなんてトランシーバー越しでしかわからない。シーバーを持ってない者は想像するだけだ。
しかし、映画ってそんなものだと思う。「本番行きます!」の声に車に向かって走り始める制作部。
「すみません、いまこの先で映画の撮影をやってまして……」
ペコペコ頭を下げて車を停めても運転手は次第に不機嫌になって罵声を浴びせ掛け始める。
「すみません、すみません。もう少しですから」
どれだけ謝ってもやがて車は動き出す事もある。
見ていて胃が痛くなる光景だ。彼ら制作部は現場でカメラやカチンコを鳴らすスタッフと同じだけ命を張って働いている。
これが映画だ。
映画はいつの間にか出来上がったりはしない。多くの人たちのまさしく血と汗と涙の結晶によって生まれるものだ。
おっと、写真の二人の事を忘れていた。
少年院から逃亡した朝雄役 浜島正法とその彼女である未夢役 杉本瑞季。
二人の現場がどうだったかも僕は知らない。
ただ、この打ち上げでの二人の表情を見ればどれだけ必死だったかは想像できる。
これが、映画だ……。
漫才シーンで日々頭を悩ませていた朝雄役 浜島と裕樹役 周作の二人。
彼の師匠は中央の男、堰さんである。
この堰さん、ちょっとおもろい。
一見、新宿の立ち飲み屋で見かけそうな人だが、実は映像作家だったり吉本の芸能部だったり多才な人だ。
しかも今回は漫才指導だ。
ネタ見せではこの堰さんから何度もダメだしをくらい一時は這い上がる事ができないほどドツボに落ちた浜島&周作だった。
その時からしばらく顔を見せなくなった師匠。
小魚を煮るとはこの事だろうか。ひっくり返しすぎれば身を崩す。
身が崩れる手前で上手に手を止めていた。
終わり良ければ全て良し。
漫才シーンのOKを一番喜んでたのはこの師匠だったに違いない……。
この続きは明日のブログで。(**)/
3月5日、残すは実景だけとなって実質クランクアップした。
監督からはこの映画は未曾有の大震災を強く連想させる作品である。
今一度初心に帰り、この映画を作ろうとした意義を皆さんにもう一度考えてもらいたい、との言葉があった。
その後は今まで関わったスタッフ、俳優で打ち上げに。
宴は朝方まで続いたそうだ……。
写真は乾杯の音頭をとる福岡監督。
昨日は2013大阪シネマフェスティバルのゲストとして参加してきた。
監督賞を受賞した故 若松孝二監督を忍ぶトークイベントの為である。
この映画祭で「カミハテ商店」は何と主演女優賞(高橋惠子さん)、新人監督賞(山本監督)、音楽賞(谷川賢作さん)の三冠を受賞した。
中でも印象的だったのは惠子さんのスピーチだ。
「芸能生活において初めての主演女優賞は、本当に何よりも嬉しい賞です。この記念すべき賞は京都造形芸術大学映画学科の学生さんたちと分かち合う大切な宝物だと思っております。そしてキャストに推してくださったプロデューサーの高橋伴明にも心から感謝致します」
隠岐の島では毎朝惠子さんと共に朝早く現場に入っていた伴明さん、自ら赤色灯を振りながら車止めや人止めをされていた。
決して恵子さんの芝居を覗き見る事も無く、徹底して一人の末端スタッフを努めていた。
映画は多くの人々の熱い思いによって作られる。
カミハテとは別のゲストとして呼ばれた僕であるが、自分の出番が終わった後すぐに客席に回り、他のお客さんと共に手が痛くなるほどの拍手を送った。
三冠を穫った恵子さん、山本監督、谷川さん、おめでとうございます。
そしてこの作品に関わった全ての方々へも大きな拍手を送りたいと思います。
写真は、ロボジーと僕。
本物のロボジーがミッキーカーチスさんと共に登壇していた。
ちなみに、この鉄の着ぐるみ相当重いらしく、しかも、着るのに一時間はかかるそうです。
映画って大変だなァ……。
高原校舎に降りしきる雪。
4回生の集大成である卒業制作展も明日で終わりを迎える。
その最終日前夜、高原校舎の観客動員は100人を越えたそうだ。
教授陣のほとんどが北白川派で取られ、相談相手も居ない中、彼ら4回生は最後の意地を見せた。
同時に北白川派福岡組「正しく生きる」も物語の終盤を迎えようとしている。
今日もまた一人東京から来た俳優 宇野祥平さんがアップし、圭役の宮里紀一郎も自分の芝居部分を終えた。
あとは電話の声を残すだけだ。
そんな中、小さな少女が奮闘している。カピバラ人形を連れた紗月ちゃんだ。
カピバラは妹 つむぎちゃんの大切な友達で、そのカピバラはいつもお姉ちゃんの撮影現場のお供に来る。
紗月ちゃんは朝から少し咳き込んでいた。出番の声がかかり、お母さんも僕も「頑張ってね」と送り出すと紗月ちゃんは「うん!」と元気に車から駆け下りていった。
現場は狭くてお母さんも入れない。彼女はたった一人で撮影現場へと向かっていった。
しばらくしてお母さんが、「お茶をたくさん飲んだいたのでトイレを我慢しないように言ってもらえますか」
その言葉には気付かなかったが、本当は熱が出ていたらしかった。
それでも彼女は大人の中で一生懸命戦っていたのだ。
具合が悪いとか熱があるとか誰にも言えず、一人で耐えながら頑張っていたのだ。
頼りのカピバラもお母さんと一緒にカバンの中で心配していたに違いない。
結局、熱がある事に演出部が気付き、今日の予定を1シーン残して終了した。
先程お母さんに電話を入れた際、「まだしんどそうですけど、薬を飲ませて早く寝かせます。すみませんでした」との言葉。こちらが恐縮してしまう。
小さな子供が頑張っている。
大人が頑張れなきゃ、嘘だと思う。後少しだと浮ついてたら天罰でも下りそうだ。
実景を残せばあと三日、ラストカットの「OK!」まで各部一丸となって突き進もう。
改めて今日、映画に挑む姿勢を小さな子供に教えられた。
……雪は今もなお降り続く。
今日は最後の撮休、スタッフルームの「消し香盤」の白枠も残り少なくなってきた。
後はクランクアップまで突っ走るだけだ。
昨日の岸部さんのアップに続き、明日は弁当屋の店長役 宇野さんの終了予定。
残る役者は子役の紗月ちゃんとうちの若手たちだけとなる。
明後日3月3日は大阪シネマフェスティバルだ。
北白川派の2010年度期製作の「カミハテ商店」が主演女優賞(高橋惠子さん)、新人監督賞(山本監督)、音楽賞(谷川賢作さん)の三冠を受賞し、監督らは檜舞台へと上がることになった。
僕はと言えば、監督賞の若松孝二監督の代理で受賞する井浦 新君と共に若松監督を忍ぶトークショーに呼ばれている。
若松監督との思い出なんて、大した話を持ってないがやはりテストも無く本番を迎えなければならない辛さだろう。
「千年の愉楽」では僕が演じる泥棒の親玉と高岡蒼佑君らとで空き巣に入る場面、現場に呼ばれたかと思えば金庫の隠してある部屋の前で待たされていきなり本番。
部屋にもまだ入ってないからどこに金庫が隠してあるかなんてわかりゃしないし、スタッフだって教えてくれない。わざと教えないのではなくそれどころじゃないわけだ。
やがてカメラは回りだし、当然本気で探さなければ見つかりゃしない。
もたもたしてると案の定カットがかかり、「おまえら真剣に探さないから見つからねえんだ!」
そんな理不尽とも言える監督の演出はこればかりじゃない。
とにかく油断してると雷が落ちる。
呑気に出番を待ってなんかいられない。
控え室から常に本番体制でいなければならないのだ。
それは俳優だけじゃなく、長年若松監督作品に付き合っているスタッフにさえ怒鳴り散らす事もあった。
当時、心臓を患っていた監督だが、こんなに元気ならきっと自力で治すと思っていたのに、思いも掛けない事故だった。
生きていたら、今年も大作をとる予定だったと聞く。
もう一度、あの怒鳴り声を聞きたかった……。